17世紀半ばの江戸時代に日蘭貿易によってヨーロッパの宮殿や寺院などの壁や天井に使われていた装飾革が渡ってきました。革に型押しや彩色の施された大変豪華な品物は、「舶来の革」という意味で「金唐革」と呼ばれるようになりました。金唐革は高価ながらも煙草入れや手箱などに使われ、珍重され、やがてこの高価な革を日本の和紙を加工して作れないかと模作が始まったのです。

 1862年の第2回ロンドン万博に出品された、色彩豊かな「模造皮革」は、後に改良され「金唐革紙」として知られるようになりました。

また、1873年のウィーン万国博覧会に、日本橋にあった竹屋商店が、大判の「金革壁紙」を出品したのが日本の壁紙製造の始まりと言われています。

明治12年(1879)に、大蔵省印刷局が輸出用の金唐革紙の製造を開始し、明治13年には新たに官営工場を建築して本格的な製造を開始しました。

明治23年(1890)に大蔵省印刷局は壁紙製造業を廃止して、当時印刷局活版科の科長を務めていた山路良三へ払い下げられました。

そして、明治31年(1897)、日本の芸術産業として金唐革紙は輸出のピークを迎えまた。

 日本国内においても金唐革紙は、イギリスの建築家ジョサイア・コンドルや、その弟子たちによる近代建築物に重要な要素として使われました。

鹿鳴館や箱根離宮、国会議事堂などを華やかに飾った金唐革紙の製造も、海外で機械製による壁紙が作られるなど、新技術の登場や需要の減少によってしだいに衰退していきました。昭和37年(1962)には、最後の製造所が閉鎖されてしまいました。

 一度途絶えてしまった金唐革紙の技術を、旧日本郵船小樽支店に貼られていた壁紙の修復工事に伴い、復元しようという動きが起きました。そこで、文化財関係の美術印刷を手がけていた上田尚が依頼を受け、二年の月日を費やし1985年に復元に成功しました。以来、日本各地の重要文化財の壁紙を復元してきました。こうして新たに世に送り出された作品を、一度失われた「金唐革紙」から、あらためて『蘇った』という意味を込めて「金唐紙」と呼んでいます。